なぜ今ボブ・ディランか

毎日のコラム。

 自伝(3部作の予定)が米国でベストセラーとなり、映画に深い興味が寄せられるのは、単なる懐古趣味と思えない。
 ベトナム戦争末期、私は横須賀支局(当時)に駐在していて、米軍の若い兵士たちと「大義なき戦争」について、語り合ったことがある。
 イラク戦争で、ブッシュ米大統領は最近、「大量破壊兵器に関する情報の多くが結果として誤っていたのは事実」と明言した。そう言わざるを得ないほど、イラク情勢が悪化しているのか。
 今、60年代「非戦音楽」に関心が集まるのは理由がある。

自伝についても触れているが、ちゃんと読んでいないのではないか?と思われる。ディランの音楽を、「非戦音楽」と位置づけることがすでにディランを誤解している。ディランが、いわゆるプロテストソングを歌っていたのは、キャリアの中のほんの一部分でしかない。ディランはもっと大きい。自伝がベストセラーになったのも、「非戦」とは関係がない。ここ数年、日本で岡本太郎の本が売れているのと同じことだ。ディラン、太郎という個人が、いつまでも魅力を放っているということだ。その人のことを知りたい、という強いニーズがあるということだ。映画を監督したスコセッシは、言うまでもなく『ラスト・ワルツ』の監督であり、ここ数年、ブルースについてのドキュメンタリー作品も手がけている。そして、スコセッシがディランのドキュメンタリーを監督したのは、「非戦」とも「時代」とも関係がないと思う。スコセッシにとって、ディランという「人」が重要なのだ。見る側もそれは同じだ。