サド公爵夫人@名古屋・アートピアホール
ツアー最終公演。ご来場いただいたみなさま、本当にありがとうございました。地方公演は、どこも満員の盛況だったということで、とてもうれしく思っております。恒例、パンフレットに載せたテキストをupしておきます。
「ルネは私だったのです」
僕はたいていの場合、稽古前にその芝居で使う音楽や効果音が、ほとんど決まっている。
音楽は、僕にとってガイドラインであり、常にシーンのイメージを音楽や効果音をもとにして考える。演劇とは"聴覚のメディア"だとすら思うときがある。
昨年の『欲望という名の電車』、唯一再演をくり返す『LYNX』などはその典型で、再演に際して変更するところがあっても、芝居中で流れる曲は、ほとんど変えていない。それは使用する音楽が、僕の作品に対するイメージだからだ。オリジナル音楽を使う場合でも、楽器の種類は決めているし、ガイドとなる既存の曲が存在する。
しかし、今回の稽古では音楽をまったくかけなかった。いや、かけられなかった。それは、三島の言葉がすでに音楽だからである。若い頃、僕は熱心な三島由紀夫の読者であった。何に惹きつけられたのだろう?今、思い返すと、三島の言葉が持つ音楽性ではなかったかと思う。ストーリーや思想、生き方、死に方……そういうことではなくて、文体が醸し出すムードに惹きつけられたのではなかったか。
小林秀雄は三島の作品を、小説というよりむしろ抒情詩、と見事に言い切っている。
台詞が音楽なのに、音楽をかけるのは余計なことだ。そうして、僕はこの芝居から音楽を排除することにした。だが、これは三島の罠なのだ。音楽のことだけではなく、とにかく三島は、戯曲を舞台化しようとする者たちに、何もしないように、何もさせないようにしむける。余計なことはせずに、ただただ台詞を言えばいい、と追いつめる。舞台美術はシンプルに、照明の変化は極力少なく、俳優の動きはできるかぎり抑えて、ひたすら台詞、台詞、台詞……
そうなると、台詞の量は膨大ではあるが、それ以外の部分は余計な贅肉が削ぎ落とされていく。俳優は、一歩動くこと、表情を変えること、指一本動かすことに意識的にならざるを得ない。舞台上のすべてが意識的な世界に変貌する。そして、台詞は膨大なのに、驚くほどの静寂の中で芝居が進行する。三島は、"意識的"なことにとことんこだわった。生まれるときの記憶があると嘯き、死すら自らのものにしようとした。とことん無意識を排除した三島。そして僕たちは、三島の創った"意識的な世界"の中に閉じ込められる、サド侯爵がルネをそうしたように。
「お母様、私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます」
今回は、積極的にその三島の世界に閉じ込められようと思った。まさにサド公爵夫人ルネの心境。
モントルイユ「ルネ!打ちますよ!」
ルネ「さあ、どうぞ。もしお打ちになって、私が身をくねらして喜びでもしたらどうなさる?」みなさまも、ご存分に三島の世界に閉じ込められてください。
鈴木勝秀(suzukatz.)