「セルフ・コントロールの医学」/池見酉次郎/NHKブックス

80年代半ばに、柄谷行人の著作で池見酉次郎の本書の一部(免疫に関する部分)を知った。柄谷はそこで、自己と非自己を論じていた。それがとても面白く、池見の名前を記憶することになった。今から思えば、すぐに本書を探しに行かなかったのは、愚かだったわけだが。同じ頃、ガーフィールド博士のスポーツ理論「ピーク・パフォーマンス」を読んだ。それによって、自律的なリラクセーションを知った。それは、仕事にも生活にも多大なる影響を与え、現在の自分を形作ったものとして欠かすことができないくらいである。それが、20年近く経って、この「セルフ・コントロールの医学」を読んで驚いた。ピーク・パフォーマンスの自律的なリラクセーションは、まんま本書で紹介されているシュルツ教授の自律訓練法であり、池見が発展させた自己統制法だったのだ。もちろん、このセルフ・コントロール法をスポーツに取り入れ、さらにスケジューリング、メンタル・リハーサルと結びつけたガーフィールドの功績は素晴らしい。しかし、独自に開発された方法ではなかったわけだ。
自分が多大な影響を受けてきた理論は、実は西洋からやってきたものではなく、西洋と東洋の融合を試みようとしたもので、しかも日本から発信されていたものであったことがうれしい。そして、自分のやろうとしていることが、やはり無意味なことではないのだ、と思わせてくれた。

現代人にとって、素朴に神を信じた時代にもどることは、もはや不可能である。神に対する絶望を通して、新たに神(真なるもの)を見出すことしか、現代に残された道はない。

自ら意識するとしないとに関係なく、すでにある法則の中に生かされているわれわれには、必ずしも科学という眼鏡を通さなくても、その法則性をじかに感じとる能力が、多かれ少なかれ、備わっているものと考えられる。これが、第六感、インスピレーションなどとよばれるものであろう。宗教家は、それを神仏の啓示としてとらえ、芸術家は、造形、色彩、メロディーなどとして表現する。宗教や芸術の世界の天才たちによって、科学以前の直感によってとらえられた人間としてのあり方の法則(道)が、今日なお人間の心を支える真実として、ゆるぎない力をもっている理由も、このようなところにあるといえよう。

一般にセルフ・コントロールという言葉は、現実の環境に適応できるように自らを統御することを意味している。

カウンセラーは、来談者が述べる言葉の内容よりは、むしろそれに伴う感情に注意を向け、相手の感情をそのままに認めて暖かく受け入れようとする。相手の言葉を批判したり、お説教したり、議論したりしない。いわゆる「無条件の肯定的な関心」を相手に向け、「共感的理解」に努めるのである。しかも、こちらのそのような関心と理解を、相手にも伝えるように努力する。その間、「あなたとしたら……のように感じるのですね」といった形で、「感情の明瞭化」を助け、また相手のいったことをわかりやすくまとめて、「私はこのように理解していいでしょうか」といったふうに、相手の真意をたしかめる。

芸道の最終的なねらいは、「コントロールなきコントロール」を発展させることであると考えられている。

「体が一番よく知っている」という考えは、ベルリン大学のシュルツ教授が自律訓練法を創案するにあたっても、基本的な考えになっており、本法の発想のきっかけとなったフォークト(ドイツの脳生理学者)の自己催眠による「予防的休息」の考えの基礎にもなっているようである。

物我一如とは対象の世界と自我の意識とが不可分に結びついているということである。それは、西洋の哲学でいえば、フッサール(1859〜1938)の現象学における見る者と見られる者との結びつきに似ている。

人間の孤独感と人間同士のあつれきが強まるのは、われわれが他者から物化され道具化されるときである。

現代医学は、人間の身体をバラバラに分割し、身体に宿る生きた意味を捨て去った断片に還元することによって、純粋の対象として、つまりは物体と化せしめている。

人間が万物の霊長といわれるのは、一人一人が創造する存在であり、存在の意味を考えるものだからである。

人間が生きてゆくうえで本質的に重大な価値をもつものほど、実は無償で与えられているものなのである。

ASC(altered state of consciousness)という言葉は、催眠、瞑想、自律訓練法坐禅、TM(超越瞑想)、諸種の芸道における三昧境、ある種の薬物による恍惚状態、その他、感覚遮断、白日夢、断食、祈りなどに、ときどき伴ってくる精神状態(正確には精神生理的な状態)などを意味することになっている。

フロイトは、自由連想法をつくる上で、作家ペルネの「三日間で独創的作家となる技術」という小論にヒントをえたということである。