人斬り以蔵/司馬遼太郎/新潮文庫

人斬り以蔵 (新潮文庫)

人斬り以蔵 (新潮文庫)

「鬼謀の人」「人斬り以蔵」「割って、城を」「おお、大砲」「言い触らし団右衛門」「大夫殿坂」「美濃浪人」「売ろう物語」

短編集。「人斬り以蔵」はやはり傑作だ。以蔵は、司馬遼太郎の手によって、維新のどの歴史的人物よりも鮮やかな生を獲得したのではなかろうか。「鬼謀の人」は大村益次郎

ただ、益次郎は歴史がかれを必要としたとき忽然としてあらわれ、その使命がおわると、大急ぎで去った。
神秘的でさえある。(「鬼謀の人」)

とにかく以蔵は、天下に武市のほか、こわいものを知らない。
(斬ればただの死骸だ)
そういう社会観に達していた。以蔵が狂人でないとすれば、この時代が生みだした奇形児といっていい。(「人斬り以蔵」)

以蔵は、常に、たれかに「思考力」をあずけていた。武市にあずけ、坂本にあずけた。そこに矛盾を感じなかった。なぜならば以蔵のみるところ、どちらも、
えらいひと
だったからである。(「人斬り以蔵」)

「以蔵、そちを育てたのはわしだ。わしに従っているだけでよい」
としか、武市はいえなかった。以蔵をあくまでも、わが犬とみていた。
が、犬はいつのまにか、飼いぬしがたくさんできている。というより、武市という飼いぬしの知らぬまに、野良犬になりはてていた。
が、以蔵は自分自身を野良犬とはおもわない。武市という一人の飼いぬしから切りほどかれることによって、他藩士とひろくまじわる志士になったつもりでいた。(「人斬り以蔵」)

それでも、剣は技術ではないか、ほろびまい、というのは俗論であろう。ふしぎなものだ、以蔵は剣を抜けなくなった。いままで、
天誅、勤王、
という「正義」があったればこそ、以蔵も気負い、無造作に人も斬れた。その「正義」が以蔵の足もとから消滅すると、以蔵はただの以蔵になった。(「人斬り以蔵」)

「わかりませぬな」
「わからぬでよい。さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無うなっても、存分にそろばんが合う」
「わかりませぬな」
「わかるまい。そこだけが、侍とあきんどの稼業のちがう要じゃでな。塙団右衛門のそろばんでは、大坂に加担するほうが大儲けになる」
「が、わたくしは、関東に加担して荷駄人足を請けおい、大もうけするつもりでござりまするぞ」
「でかした団右衛門があきんどでも、理助のようにする。しかし団右衛門は、後世の者に売りつけるつもりじゃ。一生皆一夢、鉄牛五十年」(「言い触らし団右衛門」)