『ライフ・ウイズ・アーセナル LIFE with ARSENAL』vol.1

『ライフ・ウイズアーセナル LIFE with ARSENAL』
(「ぼくのプレミア・ライフ」/ニック・ホーンビィ(森田義信:訳)/新潮文庫 より)

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 [口上]
これからお届けするのは、僕・川平慈英と演出家・鈴木勝秀、スズカツさんとのコラボレーション企画の第一弾です。

イギリスの作家、ニック・ホーンビィの小説『Fever Pitch』、邦題『ぼくのプレミア・ライフ』にヒントを得て、「オオノ・ジェイムズ・スミス・ジュンイチ」という名の、日本人とイギリス人のハーフで、ロンドン在住のアーセナル・サポーターという架空の男の物語を考えました。

僕とスズカツさんの間では、すでに連続モノとしてのジュンイチの物語、エピソードが構想されています。
今回は、そのはじまりのはじまりです。
さらにジュンイチの物語は、今回のようなリーディング形式だけではなく、一人芝居、複数の登場人物を加えてのストレート・プレイ、さらにそれを発展させてミュージカル!
そんなことができたらいいなあと夢想して、二人でヘラヘラしています。

では、しばしお時間を拝借。
Music!

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<音楽>:「Life With Arsenal」opening theme

僕は、オオノ・ジェイムズ・スミス・ジュンイチ。
ややこしい名前だと思われるだろうが、父親はイギリス人で母親は日本人。
両親がそれぞれに名前をつけたので、一人で二人分の名前を持つことになった。
生まれはロンドン、誕生日は1960年5月16日。
4つ違いの妹がいる。
名前はジル・ジュンコ……両親ともに「J」が好きらしい。
母の強い意向で、日本語と英語の両方を教え込まれたおかげで、兄妹ともに、見事にバイリンガルとして成長した。
母の先見性に感謝──
現在は、ロンドンに本社のある、外資系貿易会社に勤務している。
担当地域は、もちろん日本をはじめとする極東地域。
国籍は日本。
二十歳のとき、大英帝国か日本国、どちらの国民になりたいか決めろ、と言われて、日本を選んだ──と、自己紹介はこれくらいにして、さっそく本題に入るとしよう。

<音楽、終了>

これからお話するのは、僕とイングランド・プレミア・リーグの強豪、アーセナルとの間に芽生えた感情が、どうして40年以上にも及ぶ長期にわたって続いているのか、ということである。
同時に、サッカー・ファンという人種であることについての話でもある。
サッカーを心から愛している人の書いた本なら、これまでに何万冊も出版されていることだろう。
でも、僕が話したいのは、そういうサッカーの歴史や戦術や技術のことじゃない。
サッカーファンの話なんだ。
だからと言って、いわゆるフーリガンと呼ばれる人たちの話でもない。
だって、スタジアムに足を運ぶサッカー・ファンの95%は、これまで誰かを殴ったことさえない人々なんだから。
僕が話したいのは、イングランドならどこにでもいる、普通の、いや、普通よりは少し思い入れの強い、サッカーを見ること、サッカーを考えること、サッカーとともに生きることを選んでしまった人々についてなんだ。

Jリーグができて、代表がワールドカップの常連になり、本選でも予選リーグを突破できるようになって、さらに、この夏、なでしこジャパンが世界一に輝き──おめでとう!なでしこ!──日本にもサッカーという文化がようやく定着してきたように思う。
でも、僕が思うに、まだまだサッカーは日本人のものにはなっていない。
贔屓クラブの試合には欠かさず足を運ぶ熱心なサポーターもいるだろう。
実際にサポーターグループを組織して、旗を振り、ゴール裏からチャントやブーイングする人もいるだろう。
代表の試合があれば、仕事を休んでも、たとえ海外であろうと応援にでかける人もいるだろう。
でも、サッカーとともに生きるというのは、それとはちょっと違う。

僕はどうやってアーセナルとともに生きることになったのか?
それをお話することで、イングランドのサッカー・ファンの生き方を、少しわかってもらえたらと思っている。
これから話すのは、僕の個人的体験だけど、サッカー好きな人なら、思いあたるフシはあるんじゃないかな?
とくに、仕事や授業、ときにはデートの最中でも、ふと気づくと、10年や15年や25年も前の、ゴール右上隅へ飛び込んでいく、大好きなストライカーの左足から放たれたボレーシュートを思い出しちゃうような人なら。
それと「恋に落ちた」ことがある人なら、サッカーのことがわからなくてもピンとくるはずだ。

<音楽>:「Faling Love with Football」part 1
<音楽、BGMへ>

サッカーはもちろん素晴らしいゲームだ。
だが、リーグ戦のほとんどの試合は退屈なゲームで、試合内容、勝敗で心底興奮できるのは、1シーズンにそう何試合もない。
できれば、リバプールマンチェスター・ユナイテッドと当たるビッグマッチだけを選んで見たいと思っている人たちもいることだろう。
でも、スタジアムはどこもたいてい満員になる。
たとえば、こんなデータがある。
まだプレミアリーグへ移行する前の、深刻な観客減少が叫ばれていた1990/91年のシーズンで、ファースト・ディビジョンの最下位だったダービー・カウンティでさえ、ホームゲーム1試合平均、17,000人の観客を動員していたのだ。
まさに奇跡。

つまらない試合を避けながら、1シーズンに何試合もないビッグマッチだけを見て満足している人──代表の試合にしか興味のない人はこういうタイプだな。場合によってはテレビ観戦だけでOKって人もいるかもしれない──そういう人たちと、自分の入れ込んでいるチームの試合は、全試合──スタジアムへ行かれないときはテレビ観戦も含めて──とにかく、全部見なければ気がすまないという人たちとを分けているものは、いったいなんなんだろう?
ホームのファースト・レグを0-5で落としたのに、次の水曜日、わざわざとった休みをつぶして、アウェイのセカンド・レグを見るために、ロンドンからリバプールまで出かけていくのは、なぜなんだろう?
5点差をひっくり返すことなんてできやしないことは、重々承知しているはずなのに。
行っても、落ち込むだけなのに。
そこに秘密がある。

<音楽>:「Faling Love with Football」part 1

僕はサッカーと恋に落ちた、その後の人生で女の人と恋に落ちたのと同じやり方で。
応援とかサポートとかじゃない。
「恋に落ちた」んだ。
突然、説明もできぬまま、判断力を失い、取り憑かれたようになって、胸は痛み、頭は混乱し、ほかのものは何も見えなくなる。
まさにそんな感じ。
そして、それが40年以上も続いている──
そこまで一人の女性に情熱を燃やし続けることができるか、と言われれば、正直「?」であるが、まさに「恋に落ちる」という感覚が相応しい。

<音楽、終了>

1968年。
僕が8歳のとき、両親は離婚した。
国際結婚による、複雑な問題がそこにはあったと思われるが、簡単に言えば、父が母とは別の女性と出逢い、家を出たのだ。
僕は母や妹といっしょに、そのままロンドン郊外の家にとどまった。
現在と違って当時は、両親が離婚するなんていうのは、とても珍しいことだった。
当然、クラスにも僕以外、そんな境遇の子供はいなかった。
学校の先生も、近所の物知りおばさんも、こういう場合、どう対処すべきか、ということを教えてはくれない。
わが家族は、独力でこの問題に向き合わなければならなかった。
そして、それは当然のことながら、僕の家族、それぞれに深い傷を負わせた。
僕はといえば、8歳の子供ながら、得体の知れない怒りが体の中にくすぶっているような感じだった。

すぐに、いくつもの問題が発生した。
たぶん、そのなかで僕に関係があって、最も緊急な問題は、同時に、最も陳腐なものであった。
「週末の午後における父との過ごし方」
父は母との契約で、週末にわが家を訪ねてきて、僕と妹を連れ出すことになっていた。

最初は、父の新居へ行くことが多かった。
父の同棲相手は、僕たちに気に入られようなんて愚かなことは考えずに、必ず家を空けていた。
それは子供ながらに大いにありがたかった。
だが父の家へ連れて行かれても、とくに何かをするわけじゃない。
ジェリービーンズを食べながら、テレビを見るくらい。
共通の話題が何もないのだ。
すぐに空気が凍りつく。

「よし、どこか出かけよう」

とは言うものの、大のオトナが十歳にもならない子供をふたり連れて行けるところなど、たいしてない。
パブでビールでも飲めるようならいくらでも時間は潰せたのに……

「動物園はどうだ?」

で、動物園へでかける。
だが、毎週、動物園へ行ったら、すぐに見るものはなくなる。
まあ、僕か妹が、飽きることなくサル山を見続け、それがもとで将来動物学者になるようなタイプだったらまた話はちがったと思うが、あいにく僕も妹も、サル山のサルと同じくらいじっとしていられない、そこらへんのガキだった。
だから、僕たち三人は、父の車に乗せられ、時間つぶしも兼ねてドライブして、とりあえず隣町や空港のホテルへ行き、夕方の早い時間に、ほかに客もなく寒々としたレストランで食事をするのが常だった。

子供というのは、ディナーの席でオトナにとって楽しいおしゃべりができる人種ではない。
だいいち僕と妹は、普段の食事はテレビを見ながらすることに慣れていたから、ただ黙々とチキンやステーキを食べた。
父はそれを見守るだけ。
こんな親子デートが、いつまでも続くわけがなかったのは、自明の理ってものだ。

<音楽>:「Problems」
<音楽、終了>

そんな状況を打開すべく、父は夏が終わって次のシーズンが始まると、サッカーを見に行かないか、と誘ってくれた。
僕が「イエス」と答えたときは、心から驚いたに違いない。
なぜかと言えば、父が提案したことに、僕はそれまでほとんど「イエス」と答えたことがなかったからだ。

シェイクスピア劇、ラグビークリケットの試合、船旅、シルバーストーン・サーキットロングリートハウスの巨大迷路……だが、僕はそんなところへなどちっとも行きたくなかった。
もちろん、家族を捨てた父に嫌がらせをしようと思ったわけではない。
父とならどこへ行ってもよかった。
ただ、父の提案する場所が、どこも気に入らなかっただけの話だ。
しかし、サッカーはちがった……

僕は、あのころ、サッカーのテレビ観戦に夢中だった。
でも、母とスタジアムへは行かれない。
今とちがって、女子供だけで行かれるような場所ではなかったのだ。
それでも、僕の中のサッカー熱は、テレビ観戦や近所の仲間とボールを蹴るだけではおさまらなくなり始めていた。
スタジアムでサッカーが見たい。
それが僕の一番の望みとなっていたのだ。

<音楽>:「Faling Love with Football」part 2
<音楽、BGMへ>

1966年のイングランドがワールドカップ制覇したときは、まだ6歳だったので、あまりちゃんとした記憶がない。
サッカーを見てもよくわからなかったし、面白いと思えなかったのだろう。
だが、この年、1968年の5月、僕はマンチェスター・ユナイテッドベンフィカのチャンピオンズ・カップ決勝をテレビで観て大興奮し、突然、サッカー熱が最高点に達した。
それから下がったことはないのだけれど…
とにかく、イングランドのクラブが初めてヨーロッパ・チャンピオンになったのだ。
しかも、ユナイテッドには、5人目のビートルズと呼ばれた、スーパースターでスーパーアイドルのジョージ・ベストがいたのである。
オトナから子供まで、ユナイテッド・フィーバーで盛り上がっていた。
自分でも驚くほどの変化だった。
それまではどちらかというとインドア派で、スポーツよりは映画や音楽が好きな子供だったのだ。
映画俳優か歌手になりたいと思っていた。
それが、8月の終わりには、現在のクラブ・ワールドカップインターコンチネンタル・カップでのユナイテッドとアルゼンチンのエストゥディアンテスの試合結果が知りたくて、朝早くから起き出すようになっていた。

すっかりにわかユナイテッド・ファンになった僕だったが、そんなユナイテッドへの愛情も3週間しか続かなかった。
インターコンチネンタル・カップを取れなかったからじゃない。
父が連れて行ってくれたのが、ノース・ロンドンのクラブ、アーセナルのホーム、ハイベリーだったからだ。

<音楽、終了>

初めてのハイベリーでの試合のことは、あまりよく覚えていない。
対戦相手はストーク・シティ
記憶のもやの向こうから、かろうじてたった一本のゴールが蘇る。
ストーク・シティのファウルでアーセナルにPKが与えられ、大歓声が起こる。
テリー・ニールがペナルティ・スポットにボールをセットすると、大歓声は急激に静まり返る。
不気味な静寂がスタジアムを包み込む。
ニールのキック。
伝説のゴールキーパーゴードン・バンクスがはじき返す。
失望した観衆の低い唸り声がスタジアムに響きわたる。
だが、ラッキーなことにこぼれ球がニールの足下におさまる。
ニールはすかさずシュート。
ゴール!
僕の周りのみんなが立ち上がって叫んだ。

(大観衆、しかもオトナの男たちの絶叫)
(それに引き続き、「アーセナルアーセナルアーセナル」の大合唱)

僕は全身に鳥肌が立ち、立ち上がることも叫ぶこともできず──だいたい何が起こっているのか見ることもできなかったのだ──ただただ得体の知れないオトナたちの叫び声に包まれていた。

(「アーセナルアーセナルアーセナル」の大合唱が消える)

試合内容についての記憶はこれくらいしかないが、僕の頭には、多分もっと意味のある記憶が刻み込まれた。
それはハイベリーを埋め尽くした観客。
すべてを包み込んでいた、あの絶望的なまでの男くささだ。
葉巻やパイプの煙のにおい。
そして汚い言葉、Four Letter Words──これより前にも聞いたことがなかったわけではないが、大のオトナがあんなに大声で、しかも大勢がそこら中で叫ぶのを聞いたのは初めてだった。

覚えているかぎり、僕は試合や選手より観客のほうを見ていた。
満員だったから、おそらく2万人はいたはずだ。
それまでテレビ以外で、そんな数の人間を一度に見たことはなかった。
圧倒された。
凄まじいエネルギーがスタジアムに充満していたのだ。
ある種の感動があった。
チームでもスタジアムでもなく、このハイベリーの住人たちに、僕は魅了されたのである。
そしてとっさに、いつまでもこの中の一人でいたいと願ってしまったのだ。
つまり、アーセナル・ファンになりたいと。

<音楽>:「Faling Love with Football」part 3
<音楽、終了>

今でも僕を惹きつけてはなさないのは、スタジアムにいた人たちの多くが、そこにいることを本当に、心の底から「憎んでいる」ように見えるということだ。
「楽しんでいる」人など、観光客以外ほとんどいない。
スタジアムへは、だいたいの人が一人一人バラバラにやってくる。
誰かと待ち合わせをして、楽しいサッカー観戦、なんてムードはどこにもない。
個人の責任と選択によって、男たちはスタジアムへ集まってくるのだ。
90年代になれば、グラマースクールの女の子でもスタジアムに来られるようになるが、1960年代のスタジアムに、そんな雰囲気は皆無だった。
男の子を惹きつける「危険」な香りに満ちていた。
多くの人が難しい顔をして、おたがいに喋ったりもしていない。
知らされているのは、キックオフのスケジュールだけ。
男たちは、試合を見届ける以外にムダな時間は使わないので、キックオフの数分前になって、ようやくスタンドは埋まる。
そして──

(試合開始のホイッスル)
<音楽>:「Love & Hate」
<音楽、BGMへ>

キックオフから数分で、スタンドにはもう怒りが充満する。

「恥を知れ、グールド!」
「週に100ポンド?週に100ポンドだ?おまえがオレに払え!バカヤロー!」
「死んでくれ!オマンコ野郎!」
「いつになったら、真っ直ぐボール蹴れるようになるんだ、チンカス!」
「おまえらなんか、メチャクチャにやられちまえばいいんだ!クソっ!」

間違いなく応援ではない。
味方の選手を罵倒し続けているといってもいいくらいなのだ。
さらにゲームが進むと、怒りは激怒の渦に変わり、それからむっつりと押し黙ることで表現される屈折した不満の表現へと移っていく。
重苦しい沈黙が、選手にさらにプレッシャーをかける。

(重苦しい大観衆のため息、嘆き)

これはハイベリーだけが特別なのではない。
僕はこの年、チェルシーにもトテナムにも行ったし、レンジャーズの試合にも行った。
だが、どこでも同じだった。
イングランドのサッカーファンにとって、もっとも自然なのは、スコアがどうであれ、苦々しく落胆している状態なのだ。
スタジアムには、ストレスの発散ではなく、ストレスを溜め込みに行ってるようなものなのである。

<音楽、終了>

思うにどのクラブのファンも、サッカーが華麗なものではないことを知っているのではないだろうか。
たとえ、現在、芸術とも称されるバルセロナのサッカーでさえ、ほとんどの攻撃は実を結ばない。
手を使わないというルールのために、ラグビーやバスケットボールと比べたら圧倒的に正確性に欠け、ミスがあって当たり前の競技。
自然環境やジャッジに左右され、かなりの局面が思ったようにはいかない。
場合によっては、最初から最後まで何一つうまくいかないで終わることもある。
そして、これほど勝敗がつかないで終わる競技もほかにはない。
勝敗がつかずに、グズグズとしたやり切れないムードのままスタジアムをあとにすることも何度もある。
むしろ弱小クラブのほうが、ビッグクラブと対戦するときははじめから引き分け狙いだから、スコアレスドローなんかで終われたら万々歳なので、ドローでの喜びは大きい。

もちろんチームが勝っていれば多くは許される。
だが、僕が最初に見たころのアーセナルは、エリザベス2世戴冠式のあった1952年以来、一度も優勝していなかったのだ。
チームは試合をやるたびに、ファンの心の傷にただただ塩をなすりつけていた。
それでも選手はなんとかしようと走り回り、みじめな失敗を何度も何度もくり返す。
ファンは試合を見ることさえイヤそうに、そっぽを向く。
まるで、冷え切った夫婦関係と同じだった。
由緒ある美しいアールデコのスタンドや、ジェイコブ・エプスタインの彫刻で飾られたスタジアムでさえ、ファン同様、チームの惨状を非難しているように感じられた。
最悪のエンタテイメント……

そのころまでに、大衆向けエンタテイメントはいくつか体験していた。
映画や演劇、コンサート……どれもが訪れた観客は、各催しを「楽しみ」に来ていた。
当然のことながら、激怒や絶望やフラストレーションで顔をゆがめる人などいない。
だが、スタジアムで、ハイベリーで見るサッカーはちがった。
テレビで見ていたサッカーともちがった。
どういえばいいのだろう?

苦痛としての娯楽……

それは僕にとって、まさに新しいもので、これこそまさに待ち望んでいたものだと感じた。
「恋愛」と同じように、障害があればあるほど、相手に対する気持ちは燃え上がる。
そして、誰も消せないほどの炎となって、人生の大部分を焼き尽くすまでおさまる見込みは立たない……
むろん、当時8歳の子供に、こんな分析や理解ができたわけではない。
あとになって、こういうことだったんだ、と自分なりに考えたことだ。

すべてはあの午後に始まった。
それもいきなり。
あのとき行ったのがハイベリーじゃなくて、ホワイト・ハート・レインスタンフォード・ブリッジだったとしても、結果は同じだっただろう。
あまりに圧倒的な体験だったのだ──

<音楽>:「Faling Love with Football」part 4
<音楽、BGMへ>

ハイベリーから帰ると、僕は熱病に冒されたように「アーセナルアーセナルアーセナル」と低い声でくり返し、眉間にシワを寄せ、ことあるたびにFour Letter Wordsを口にするようになった。
母から苦情を言われたのか、とにかく避けがたい事態になりつつあることを悟った父は、なんとか僕がハイベリーの住人になることに歯止めをかけようと、今度はスパーズの試合に連れていった。
スパーズがサンダーランド相手に、ジミー・グリーヴズの4点を含む5-1で快勝した試合だ。
だがすでに手遅れだった。
スパーズから見て楽観的でのん気なこの試合は、僕を感動させることはなかった。
僕を感動させ虜にしたのは、大量得点で勝利を得たチームではなく、わずか1本のPK、しかもそのリバウンドを押し込んだ1点でどうにか勝ったチームと、そのファンたちだったのだから。
そして、すでに僕はアーセナルと恋に落ちていた──

<音楽、終了>

年が明けると、僕とアーセナルを引き裂くような事態が発生した。
母が、僕と妹を連れて日本へ帰国する、と言うのである。
当時のロンドンは、日本人の母子家庭が住みやすい環境では決してなかった。
イギリス人はとてもポライトな人たちだと思うが、同時に物事をはっきり区別できる国民でもあり、それが外国人には差別と感じられてしまうのだ。
いずれにしろ、母は働かなければならなかったし、実家のある日本で暮らしたほうがいいと判断。
父もそれを阻むことはできなかった。
もちろん、僕と妹も従わないわけには行かない。
父が去った今、母を守るのは自分の役目である、くらいの決意は僕にもあったのだ。
どんな場合でも、男の子は母親に涙など流させちゃいけない。
だが、このときを境に、二度と家族全員が顔を合わせることができないなんて、僕には想像することすらできなかった──

<音楽>:「Dad」
<音楽、BGMへ>

現在と違って、当時はロンドンと東京を頻繁に往復するなんてことは、あり得なかった。
一度ロンドンから東京に来てしまったら、それはそれ以降東京に暮らし続けることを意味した。
そして──実際、父ともう一度顔を合わせることができたのは、僕だけだった。
母も妹も、このときヒースローまで見送りに来た父との別れが今生の別れ。
三人とも、もう顔を合わせることができないなんて思ってもいないから、それはそれは無感動な別れのシーンだった。
ハグもなければ、握手すら記憶にない。
「じゃあな」
「うん」
それだけ。
それでも僕が父と再会できたのは、二十歳(はたち)のとき、僕がロンドンへの留学を希望したからだ。
新しい奥さんとの間に子供のいなかった父が、住むところを提供してくれることになった。
ようやく訪れた父との男同士の交流。
だが、そのときすでに父はがんに冒されていた……

<音楽>

まだクリスマス前……母と妹が日本から到着したときには、父はもう意識混濁。
さよならを告げることもできず、神の元へ召された。
ようやく一緒にパブへ行けるようになったのに……ディナーをしながらオトナの会話もできるようになったのに……まだ若かった父は、あっという間に体全体をがん細胞に攻撃され、ほんとにあっけなく敗北した。
アーセナルが、ここ一番っていう大事な試合で負けるときとそっくり。
惜しくもなんともない……ブーイングすらする気になれない……
でも、パパ、もっといろいろ話したかったよ……

<音楽、終了>
すぐに、<音楽>:「Life With Arsenal」ending theme

時を戻して──1969年。
僕は、アーセナルへの思いを引きずりながら日本へやってきた。
日本の小学校へ編入し、再びハイベリーへ戻れることを夢見ながら、日本人として生きることになった──
当時の日本で、アーセナルへの思いを満たすことは至難の業である。
当然のことながら、スタジアムへは行かれない、TV中継はない、情報すらない。
毎年、誕生日に父が送ってくれるユニフォームだけが、アーセナル・ファンの証だった。
1970年代。
日本でアーセナル・ファンを続けるには、今では想像もつかないほどの努力、精神力、忍耐力が必要だったのだ。
だが、それも頑張ればなんとかなる。
それ以上に日本人として生きるのは、僕にとっていろいろと大変なことだらけだった。
だけど、続きは、また次の機会に。

<音楽、終了>

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[以上]
鈴木勝秀(suzukatz.)