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ボックス席で見ることができた。5席くらいあるのかもしれないが、自分以外に観客はなし。ピン・オペレーターが一人ときどき現れるので、関係者席になっていたのだろう。一般のお客様には本当に申し訳ないけど、非常に快適に見ることができた。そして、劇場…
以前、「ファウスト」をやろうと思ったことがあった。今でもどこかで思っている。でも、あのゲーテが60年もの歳月を費やして書き上げた戯曲だから、生半可なプランでは太刀打ちできない。だから、まだまだ実現に向けては動かない。橋爪さんにそのことを話し…
複数ある芝居の中から、ある1本を選んで見るということは、その人の価値観・意志と深く関わりがある。
やはり自分はオールビーが好きなのだった。すべてが作り話とも思える、意味のない膨大なセリフ。それはノイズなのだ。オールビーの世界にはノイズが鳴り響いている。ディスコミュニケーション。
いやあ、うち(AARDVARK)の闘将(キャプテン)は体力あるわ。グラウンドでは年中顔をあわせてるけど、一緒に舞台やったのは、もう16年も前だからなあ。今じゃ同業者というよりは、チームメイト。体力は大切だな、やっぱり。
"つるとんたん"でうどんを食べて帰ろうと思ったのだが、10人近くが順番待ちしてしていたので断念。
オーネット・コールマンやセシル・テイラーがフリージャズを始めたとき、アメリカではなかなか受け入れられなかった。受け入れたのはヨーロッパだった。山下洋輔トリオのレコードを熱心に出していたのはドイツ人のレーベルだった。
役者とは肉体労働者=アスリートでもあるのだった。
昨年、『胎内』(三好十郎)をやることに決定する前、けいしくんと何度か打ち合わせをした。けいしくんは、「スズカツさんは和物やらないんですか?」と言うので、「いや、そんなことはないけど」と言ったところ、「菊池寛とかどうでしょう?」「『父帰る』…
シェイクスピアの作品は、いろいろな人がいろいろな解釈でやれる自由がある。著作権が切れているからだ。もちろん、著作権のある他人の作品を、契約もなしに勝手に解釈して、それで利益を得たりしてはいけない。でも、学生時代は、平気でそういうことをやっ…
実は、23歳ではじめて演出したのが、ジュネの『女中たち』なのだ。Lucky Rock Bell企画という、劇団の枠を超えて、早大劇研同期3人(ソランジュ:吉田紀之/クレール:岩谷真哉/奥様:私)のユニットでやった。舞台の上には、割れた大きな姿見と、暗幕で包…
『悪魔の唄』『ラスト・ショー』『エドモンド』『胎内』『桜飛沫』。体幹が太いからこそ、だな。
パンフレットのおまけで、マウスパッドをいただいたのだが、マウスを使っていないので、何に転用しようかな?
集団の意思というものは、実は存在しえない。あくまで個人の意思のみが、集団に反映されるのだ。
日本語は基本的に、非常に平板な発音の言葉だ。それでもリズムは存在する。話し相手と自分のリズムが合ってると、すべての単語を聞き取れなくても、何を言っているのか理解できたりする。だが、それが合わないと、ゆっくりしたスピードで話されても、何を言…
スポーツを観戦するには、ルールを知ることが必要だ。もちろんルールを知らなくてもそれなりに楽しめるが、ルールがわかると楽しみは倍増、いやそれ以上のものになる。ルールブックをすべて暗記する必要はないが、今何がどういうルールに則って行われている…
普通、ある作品をずいぶん時間が経ってからその再演を見ると、ストーリーより印象に残ったシーンの方をよく覚えているものだが、そうではない場合もあるのだった。
継続と革新。個人レベルでは両立できないことではない。マイルスがそうだ。ピカソがそうだ。しかし、集団となるとそれは難しい。つまり、革新は個人レベルで起こる。それが集団にまで及ぶと、革命になる。
日本人としてサッカーを始めたら、代表としてワールドカップ・メンバーに選ばれて、本大会でプレーすることができたら、それが頂点だろうか?それとも、たまたまワールドカップには出場できなくても、チャンピオンズ・リーグで優勝するチームのレギュラーに…
劇場と演目は無関係ではない。かといって、劇場によって上演できない演目など存在しない。戯曲や作品の意味を語ることは楽しいが、劇作とはあくまで具体的なことだ。意味とか意義をどう具体化したかだ。
レイチェルの美術。ニールと再会。一緒に仕事した二人の外国人美術家。
終演後、古田と二人で居酒屋にいた。なんだかすごく久しぶりな感じ。その後3人ほど増えたのだが、古田と飲むといつもバカになる。それは楽しいこと。
日本人は、白人でも黒人でもないのだなあ。
コミュニケーションは必要である。ディスコミュニケーションを描くにしても、それが演劇で表現される場合は、高度なコミュニケーションが必要になる。だからこそ、演劇を作るのは面白い。
まだまだ丸くなってはいられない。
いろいろな情報が溢れ、どれをやっても何かの物真似(コピー)のように感じるとき、実は誰もが最初に考えるだろうことを堂々とやる、というのは解決策なのかもしれない。シンプルに実力を競い合うのが正しい。
18年ほど前、ここで30人くらいしか客がいないことがあったことを思い出した。満員になるというのは、大きさに関わらずありがたいことである。
何かを表現するとき、自分がどこの国の人間であるかを必要以上に意識すると、そのことに囚われて、本来表現したかったことが何だったのかが、わからなくなったりしないだろうか?また、作品とはどこの国の人が作ったということがその個人より重要になること…
適材適所。これが肝心。人は苦手なことを克服する努力より、得意なことを極める努力をした方がいい。その方が楽しい。以前、一緒に仕事をしたミュージシャンから、操体法(参照)という整体のことを聞いた。これは橋本敬三という医師がはじめたとてもユニー…